2008年03月24日
武田晴信
武田信玄のことです!
武田晴信/武田信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家の当主。、諱は晴信。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の嫡男として生まれ、前代・信虎期には国内統一が達成され、信虎体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行ないつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎(または甲斐の龍とも)と呼ばれ、強大な武田軍を率い上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成される。現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人。
甲斐国守護
大永元年(1521年)11月3日、武田信虎の子として甲斐国・積翠寺城で生まれた。幼名は勝千代(かつちよ)である。
父は甲斐源氏の名門・武田氏の第18代当主で、甲斐を統一して戦国大名としての地位を確立した勇将である。信玄が生まれた大永元年(1521年)に甲斐は駿河の今川氏親の命を受けた福島正成率いる1万5000人の軍勢に攻められていたが、武田軍は勝千代の誕生を知って士気を奮い立たせ、今川軍を撃退したと言われている。また、「甲陽軍鑑」や「武田三代記」などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき、白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき、一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、曽我五郎が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。
しかし大永5年(1525年)に弟の武田信繁が生まれると、父の寵愛は信繁に移り、勝千代は徐々に疎まれるようになったとされる。甲陽軍鑑には、天文7年(1538年)正月の元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、信繁にだけ盃をさしたという逸話がある。
はじめの正室は天文2年(1533年)、父の政略により迎えられた上杉朝興の娘である。晴信と彼女の仲は良かったらしく、天文3年(1534年)に彼女は妊娠したが、難産で彼女も子も死去してしまった。このため、継室に左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。
天文5年(1536年)に今川氏輝が死去し、今川義元が家督を継ぐと武田氏は今川氏と和睦し、義元の斡旋を受けて、勝千代は三条公頼の娘を室に迎える。同年に元服し、室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、名を「晴信」と改め、従五位下・大膳大夫・信濃守に叙位・任官される。初陣は信濃国の海ノ口城主・平賀源心攻めであるとされる(異説あり)。
天文10年(1541年)、宿老であり有力国人領主である板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌等に擁立され、父・信虎を駿河国へ追放し、武田家第19代家督を相続する。信虎の追放の理由は後世の史書には悪行のためと記されているが、真偽のほどは不明。信虎は各方面での戦争を続け、国人勢力の統率に強力な中央集権化政策を採る一方で、大凶作中にも戦争と苛烈な政策をとり続け、奉行衆の造反を招いている。晴信の家督相続、そして父・信虎を駿河へ追放を甲斐国の領民たちは歓迎していたとも記されている。
(以上、ウィキペディアより引用)
すごい武将だったんですね!
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